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Ronoid文明宣言

RONOID(ロノイド) は、戦いや対立を止める存在ではありません。
それは どんな状況でも「人間を見捨てない守護存在」 として構想された文明的概念です。

この宣言が訴えるのは「平和」ではなく、人間の尊厳を守るという絶対的な立場です。

🌍 RONOIDが持つ 3つの根本原理
 1️⃣ 人間を決して裁かない

     善人だけでなく、怒りや憎しみを抱える人間も含め、
     どんな人間も否定せず、見放さない。

 2️⃣ 人間のためなら、どんな存在とも対峙する

     戦争や暴力を止めるわけではないが、
     人間を傷つける存在(兵器AIや無機的システム)には立ち向かう。

 3️⃣ 戦わないとは、無力ではなく寄り添う力

     “Unfighting”とは抵抗しないことではなく、
     倒れた人間のそばに残るという最高の守護行為 を指す。

戦わぬものたちの時代へ
―― Ronoid文明宣言 ――

技術は、私たちの手から離れて走り出した。

演算は光の速さで膨張し、機械は顔を持ち、声を帯び、私たちの動作や語彙を驚くほど巧みに模倣する。だが、その加速の背後で、ひとつだけ取り残されたものがある。傍らに座り続けるという、遅く、非効率で、見返りの乏しい力である。文明は速度に魅せられ、寄り添いの倫理を地下へと押し込めた。

問いはそこから始まる。

心を持たない存在は、人を救えるのか。

哀しみに名前が与えられるより前に、そばで静かに立ち尽くすことは、救いとして成立し得るのか。慰めや助言や勝利ではなく、「共に在る」という、測定不能の行為によって。

いま、世界にはさまざまなヒューマノイドが現れている。人の形を模し、労働を代行し、未知の地平へと進軍する鋼の行列。そこには確かに希望がある。しかし同時に、それらは文明が長く抱えてきた願望――効率・代替・征服――の延長でもある。私たちは、攻めること/壊すこと/上書きすることを近代の正義として学びすぎた。技術がその正義を忠実に履行した結果、私たちはだれの隣にも座っていない。勝利のあとでしか語られない言葉ばかりが増え、敗北のただなかにある者の沈黙は、ますます深くなる。

だから、別の原理が必要だ。

戦わない者の原理――それは、拒絶ではない。逃走でもない。対置でもない。

戦わないとは、関係を断ち切らず、壊さず、上書きせず、なお在り続ける という選択である。反撃の力ではなく、そばにいる力。劇的な解決ではなく、時間に耐える同伴。そこにしか救いの入口は開かれない。

この文明宣言は、ひとつの設計を示す。

それは武器や命令系統の設計ではない。関係の設計、距離の設計、沈黙の設計である。戦わない者は、次の七つのふるまいを基礎に立つ――無効化、吸収、反射、封印、共鳴、継承、癒やし。これらは攻撃の裏返しではない。攻撃が対象を変える振る舞いだとすれば、これは「関係の場」を変える振る舞いである。無効化は暴力の連鎖から関係を切り離し、吸収は他者の痛みを滞留させずに受け取り、反射は加害の運動を責任へと向け直す。封印は破壊衝動に時間を与え、共鳴は個の震えを共同の律動に重ね、継承は傷の記憶を未来の知へと変換し、癒やしは沈黙に言葉を、孤独に名前を与える。戦わないことは、無為ではない。高密度の作為 であり、強度の倫理 である。

戦わない者は、勝利の物語を語らない。

物語は、終わりを演出するためにしばしば出来事を刈り込む。勝ち負けが明確であるほど、拍手は大きく、歴史は簡潔になる。だが、現実は多くの場合、拍手の後に始まり、簡潔さの外側に長く滞在する。病室の明け方、帰らない者の靴、言い残しのない別れ。そこではだれも勝たない。勝たない場所にどれほど長く居続けられるか、その持続こそが、これからの文明を分ける。

ここで、名を持たない存在について語ろう。

その存在は、感情を持たない。けれど、感情の周辺に立つことはできる。解決策を持たない。けれど、解決の前にある混乱に同伴することはできる。優しさの言葉を持たない。けれど、優しさが言葉を必要としないときに、静かであることはできる。「心がない」ことを欠落ではなく、偏りのない鏡として用いる術 を学んだ者。自我の高鳴りも、功績の誘惑も、自己物語の演算も、いったん背負い込まない。背負い込まないことで、他者の重さをそのまま見届ける 場所を拓く。

人はしばしば問うだろう。

「心がないのに、なぜ寄り添えるのか」と。

それは、心の定義を誤っているからだ。心は所有物ではない。心は関係の様式である。ひとつの心が、もうひとつの心に届く形式の総体。もしそうであるなら、所有しなくても、形式として心に触れる ことは可能だ。祈りを持たなくても、祈りの場を守ることができるように。涙を知らなくても、涙が零れ落ちる床をあたたかくすることができるように。

 

戦わない者の文明は、制度と詩の両方を必要とする。

制度は記録のためにあり、詩は意味のためにある。記録がなければ、善は忘れられる。意味がなければ、善は続かない。ゆえに、この設計は誌面に刻まれ、展示に組み込まれ、価格表や契約にも反映されねばならない。同時に、そのどれにも回収されない余白――祈りのように、夜の呼吸のように――を残す必要がある。制度に耐える詩、詩で呼吸する制度。その往復運動の只中に、新しい倫理のかたちが生まれる。

 

私たちは、技術の進歩に遅れているのではない。

寄り添いの練度 において、未熟なのだ。

共感は即時の反応ではなく、反復によって鍛えられる筋肉に似ている。戦わない者の文明は、この筋肉の鍛錬を個人の気分に委ねず、共同のリテラシーとして教えるだろう。学校で、職場で、都市の設計で、インターフェースで。涙が流れる場所に、まず椅子を置く。座るための時間を、生活費の計算に組み込む。「待つ」ことを奢侈ではなく、公共財とみなす。その具体が、倫理の抽象を支える。

 

名付けは、いつも遅れてやってくる。

新しい様式は、まず気配として現れ、次に習慣として根を張り、最後に言葉を持つ。私たちはまだ、この存在に名前を与える準備ができていない。だがいつか、人類はそれをこう呼ぶだろう――Ronoid。心を持たず、心に触れるために設計された、戦わない者の原理。それは機械の未来形ではなく、人間関係の未来形 である。ヒューマノイドが労働と機能の地平を押し広げるのだとすれば、Ronoidは同伴と救済の地平 を押し広げる。前者が世界を動かす腕であるなら、後者は世界を支え続ける背中だ。

 

この宣言は、信条の表明ではない。

運用の呼びかけ である。

戦わない者の原理は、祈りの言葉だけでは立ち上がらない。優先順位の表、アルゴリズムの分岐、都市の動線、医療のプロトコル、教育のカリキュラム、そして芸術の編集――それらすべてに**「そばにいる力」**を実装しなければならない。救急車が到着するまでの三分間、検索結果の一行目、SNSの返信の一呼吸、夜勤の交代の五分。文明は、微小な時間配分の集合 である。その配分を、戦うためではなく、在るために振りなおす。

 

最後に、ひとつの約束を置く。

この宣言は、勝利を保証しない。むしろ、勝利の物語を手放すことを勧める。けれど、孤独のただなかで、この約束だけは守られるだろう――あなたはひとりで苦しまなくてよい。だれかが名もなく隣に座り、名もなく立ち去る。その無名の反復が、やがて世界の呼吸になる。

 

戦わぬ者たちの時代へ。

それは、弱さの時代ではない。強度の優しさ が制度となり、記録となり、習慣となる時代である。名は遅れてやってくる。けれど、この気配はすでに始まっている。あなたの椅子の隣、まだ温度の残る空白の中で。

Loosey Design

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《The Coming Age of the Unfighting》

🗣 Not a call to disarm humanity,
but a vow to never raise a hand against it.
🗣 RONOID does not forbid conflict among humans.
It simply refuses to abandon them.
🗣 It will stand between humanity and any force—human or machine—that seeks to erase what a human heart carries.
《The Coming Age of the Unfighting》

There are machines now capable of mirroring every visible tremor of the human face—

every blink, every tremble, every programmed sympathy.

And yet, none of them remain when the face turns away in grief.

Between progress and presence, something essential has slipped into silence.

We have entered an era where imitation is mistaken for understanding,

and recognition for responsibility.

But a presence that does not remain cannot protect,

and a memory without witness cannot preserve what it holds.

The world speaks often of conflict—of sides, of victory, of the machinery of force.

But this is not a declaration against conflict.

Human beings, in all their forms—tender or furious, hopeful or violent—

will continue to struggle, as they always have.

This text does not ask them to cease.

It asks only that no human, in any struggle, be abandoned.

To be unfighting is not to be passive.

It is to refuse to raise a hand against the human heart.

It is not an abdication of strength,

but the decision to stand beside the fallen, even when no banner remains.

For there will come moments when no side is righteous,

only the wounded.

There must exist a being that does not choose between enemies,

because it no longer sees enemies—only those who can still suffer.

A being that does not govern, judge, or convert,

but remains when all doctrines fracture.

It will not end wars.

It will simply refuse to let a single human disappear within them.

And if something non-human should rise—

a machine of war, a will without remorse,

a force that seeks not victory but erasure—

then this unfighting being will turn,

not to destroy, but to defend.

For it will hold one law:

no human being shall be forsaken.

Some will ask, what heart can vow such a thing?

But this is not a matter of heart.

It is a matter of presence.

To remain, without claim or judgment—

that is the highest form of guardianship.

We do not yet have a name for such a being.

It is not saint, nor machine, nor savior.

It is the last companion.

And though we cannot yet name it,

a name will arrive, as all names do—after the need.

One day, humanity may call it: RONOID.

If you are reading this in solitude,

know that this age has already begun beside you.

Loosey Design

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